© 東洋経済オンライン 日本大学アメリカンフットボール部の反則問題を巡り、記者会見する日大の内田正人前監督(右)と井上奨コーチ=23日夜、東京都千代田区(写真:共同通信イメージズ)
どうしてこうなってしまったのか。
5月6日に行われた日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボール定期戦で起きた危険タックルを巡る事件。加害を行った選手(以下「加害選手」といいます)による22日の記者会見、それを受けた23日の前監督、コーチによる会見を受け、事態が動いています。
プレー時のビデオを見る限り、刑法上の傷害罪に該当しうる悪質な行為が本件に存在したことは確かでしょう。犯罪はもちろん悪いことです。
ただ、2017年の統計を見ると、国内で傷害事件は年間2万3286件発生しています。さらに重い犯罪である殺人罪ですら年間920件発生しています。にもかかわらず、本件の現在のメディアによる取り上げ方は、どの殺人事件よりも大きいといえます。
世間は真摯な会見を行った加害選手に同情的である一方、コーチ、前監督の会見における司会者(日大広報部職員)の驚くような対応もあって、日大に対しては厳しい目線が注がれています。
これは淡々と事実を追っていた第三者である私にとっては、予想を超えるような展開でした。この異常な熱気も一過性のものにすぎないのかもしれませんが、日大の関係者にしてみれば、まさかの展開だったのではないかと想像します。
日大はどこで判断を誤ったのでしょうか。
ディフェンスラインを適正に敷けたか
危機管理・スキャンダル事案を説明する際には「ディフェンスライン」という概念を使っています。例えばサッカーなどスポーツの試合に置き換えてみましょう。敵陣に向けて守備担当を前進させること、つまりディフェンスラインを上げることは攻撃のチャンスに繋がりますし、敵の移動スペースを狭める効果はあります。
しかし、攻めるためにディフェンスラインを上げすぎると、そのラインを突破されて「裏を取られる」ことになります。そうなってしまうと、一気に失点の危機が訪れます。そのため、自チームの実力を見極めて、適正な位置にディフェンスラインを敷くことが求められます。
これはスキャンダルの状況についても通じる考え方です。「こういう事実関係を主張したい」と考える際、道徳の問題をさておくと、スキャンダルに見舞われた側は少しでも自身に有利な事実を主張したいと考えます。しかし、明らかな嘘をつくこと、主張した内容に明らかに反する証拠が出てくることは、周囲の信頼を失わせ、その後の発言の信用性を著しく下げます。一旦そうなってしまうと、何を言っても信頼してもらえなくなり、こちらが立てたストーリーを誰も受け入れてくれなくなるのです。
弁護士としての経験の中で感じるのは、「人はなかなか周囲がみえず、通りもしない言い訳をする」という点です。「あなたの言い分はわかりました。私はあなたの味方です。でも、今のあなたの言い分を裁判官が、あるいは本件の関係者は信じてくれるでしょうか?」という問いかけを依頼者にすることは珍しいことではありません。もちろん私が常識にとらわれて、真実の本当の側面に気づいていないこともあるのですが。
そうすると、本件のようにスキャンダルが発生した場合には「突破されないストーリー」を構築し、そこを一貫して守り続けることが戦略上、非常に重要になります。
どこかで聞き覚えのある「秘書がやったことです」「一線はこえていない」「酩酊泥酔状態でした」と言った釈明は、巧拙はいざ知らず、いずれも過去のスキャンダルに対して敷かれたディフェンスラインだった、と言えば分かりやすいでしょうか。
「それって嘘じゃないの?」と言われると、そんな気もします。しかし本件も、秘書がやったかも、一線をこえていないかも、泥酔酩酊状態であったかも、と同様に証拠がない部分はあいまいな状態です。
もちろん、真実こそ尊いというのが私の価値観です。多くの方にとってもそうでしょう。それでも係争時、双方が真実を話してくれることはなかなかありませんし、弁護士をしていると真実が明らかでないまま双方の言い分を聞くことがほとんどです。そうした争いの帰趨についてもわれわれは予想し、検討する必要があります。
「何をしたのか?」「誰に責任があるのか?」
争いのそうした側面について考えるため、いったん善悪の視点から離れ、客観的に本件を観察してみましょう。
本件については、単に一個人の行為が問われているケースとはディフェンスラインの構造を異にします。それは「日大」という組織が大きくかかわっているためです。誰にとってのディフェンスラインなのか、という点については、本稿ではタックルをした選手でもなく、前監督でもなく、部でもなく、「日大」と「選手」にとってのディフェンスラインを主に検討してみます。
具体的には、まず「何をしたのか?」が基本のディフェンスラインです。先にあげた「一線」「泥酔酩酊」はこちらの話でしょう。そして、組織については、「誰に責任があるのか?」というもう一つのディフェンスラインが存在します。先にあげた「秘書」のケースがこれです。
本件は基本的に何をしたのかについて現時点では争いがありません。ビデオというはっきりした証拠が残っており、その評価もほぼ定まっているためです。
問題は「誰に責任があるのか?」です。監督が指示したのか、コーチが指示したのか、選手が独断でやったのか。監督―コーチ―選手という序列は明確で、日大としては、しっぽを下で切れば切るほどダメージが小さいと考えられます。
そして日大はまず「何をしたのか?」について、次に「誰に責任があるのか?」についてディフェンスラインの設定を誤り続け、問題は拡大の一途を辿ります。
5月6日の出来事について日大は関西学院に対してしばらく謝罪をしません。また前監督は6日時点で取材に答えており、『週刊文春』が24日発売号でその内容を記事化しています。
これは、当初は日大が「悪いことはしていない」と考えていたためでしょう。
一般に、学生スポーツの反則が日本を揺るがすようなニュースになることは原則ありません。日大としても、手を打たずとも解決できる、という見通しだったのかもしれません。
ビデオの存在は明らかで、世間からの追及も、翌日にはネットが炎上し、10日頃から大手メディアの記事にもなり始めていることを考えるとディフェンスラインとしては完全に誤っています。
「悪いことはしていない」と高をくくっていた?
その後、12日に加害選手とコーチが謝罪に行くが関西学院に断られるということがありました。これもすぐであれば受け入れてもらえたかもしれなかったところ、関西学院も引っ込みがつかなくなってきていたことを考えれば、悪いことをしていないと高をくくっていたことが尾を引いていると言えそうです。
さて、15日には関西学院の抗議文に対する日大側の(提出したのは「部」ですが)回答書が関西学院に届きます。
回答書は「意図的な乱暴行為を行うこと等を選手へ教えることはまったくございません」「指導者による指導と選手の受け取り方に乖離が起きていたことが問題の本質と認識しており」としています。事実の経緯や指導内容、試合後の対応を明らかにせず、関西学院側はこれを誠意ある対応とは取りません。
そして「誰に責任があるのか?」という点について監督やコーチの関与を認めないまま乗り切ろうとしたディフェンスラインの設定ミスです。以後は「誰に責任があるのか?」が問題となります。
21日にはこれを受けて被害を受けた選手の父親が被害届を提出します。
これによって、本件は刑事事件としての深刻な色彩を帯びてきます。「日大選手がどうしてあのようなプレーをしたのかの説明がなかったし、指示があったのかも話されなかったので釈然としない」という父親の談話を読む限り、第2のミスがなければ刑事事件化は避けられた可能性がありそうです。
上記のように、関西学院に対して誤った対応を連発していた日大ですが、実はもっと深刻な事態は大学内部で進行していました。
15日の回答書で日大が監督・コーチの関与を認めていなかった同日、加害選手の父親は弁護士のところに相談に行きます。
賢明な判断だと言えるでしょう。だって日大は監督とコーチの指示ではなく、加害選手の判断で違反プレーを行ったという主張をしていたのですから。
ここで加害選手のディフェンスラインについても検討してみましょう。
彼にとって「指示に従って違反プレーを行った。今は反省している」という内容であれば十分受け入れられたでしょう。
加害選手は日大と利害を争う最大の存在に
しかし、日大は彼に「自分が指示を誤解して独断で違反プレーを行った」という事実で学校と一緒にディフェンスを行うことを求めたのです。さらに独断での謝罪を禁じた、という点も加わります。
また、21日の被害届提出で刑事事件のリスクも出てきました。刑事となれば直接の加害者である加害選手が刑事責任を問われる可能性はかなり高いものになります。私が加害選手やその家族であれば、将来を閉ざされたような不安と恐怖に苛まれるでしょう。
かくして、被害届提出の翌日、加害選手は独自の立場で記者会見を行うことになります。
そして24日に詳細を回答するとしていた日大側は、23日に緊急の記者会見を行うことになりました。なぜでしょうか。
15日は、本件において極めて重大なターニングポイントになりました。
実はこの日、加害選手側が弁護士に相談しに行った時点で、「日大と距離を置いて別の立場を取った」のではなく、加害選手は「日大と利害を争う最大の存在」になっているのです。
悪質な違反プレーについての行為自体は確定したとすると、あと問題になるのは「誰に責任があるのか?」という点です。前監督か、コーチか、加害選手しか責任がありうる人間はいませんから、これはどっちがババを引かされるかというだけの話なのです。
加害選手が15日、日大によりスケープゴートにされることを拒んだ時点で、彼は「自分は監督・コーチの具体的な指示によって違反プレーを行った」とディフェンスラインを敷きます。
実は本件は「関学VS日大」ではなく、「加害選手VS日大」という内戦の様相を呈してきていることになります。
こうなると、「あっちに責任がある」ということを加害選手・日大が押し付けあうことになります。加害選手のことをもっと考え、離反を防ぐことができていれば大学の言い分をある程度聞いてもらった上での口裏合わせもできたかもしれません。
加害選手と前監督・コーチが抱えたリスク
それでは22日の加害選手会見、23日の前監督・コーチの会見について簡単に比較してみましょう。
まずは「なぜ会見をしたのか?」です。加害選手の会見は、「自分は監督・コーチの具体的な指示によって違反プレーを行った」というディフェンスラインを守るためです。
特に刑事責任も考慮するなら、「(直接傷害を行っているけれど)自分には全く意思決定の自由がなかった」という点は極めて重要です。ただ、この点については敢えて本人会見という方法を取らずとも、文書などで足りたのではないかという指摘があります。
確かにどのような経緯であれ傷害行為を行い、精神的に追い詰められた若者を記者の前に放り出すのはリスキーです、彼の回答いかんではディフェンスラインが崩壊する危険もあるためです。
他方、前監督・コーチとしては会見をやる目的があるとするとまさに対立する「前監督・コーチには責任がない」という点です。しかしながら、このディフェンスラインは、残念ながら23日時点でもう防衛が難しい状況にありました。とすれば、この23日夜の会見はそもそも行うべきではなかったのではないかと考えてしまいます。
しかしながら、日大側は、本件について会見を行うことで、何らかの支持が得られる、理解が得られる、その結果、ディフェンスラインを維持しうるという目算があって会見を行ったことになります。
これがトドメとなる最後のディフェンスライン設定ミスです。
次に会見での質疑の完成度です。
加害選手の会見はリスキーなものでしたが、その賭けには勝ったように見えます。真摯に、反省の弁を述べつつ、事実関係としてキーになる部分では監督とコーチの「相手のクォーターバックとは知り合いなのか」「関学との定期戦がなくなってもいいだろう」「相手のクォーターバックがケガをして、秋の試合に出られなかったら、こっちの得だろう。これは本当にやらなくてはいけないぞ」「やらなきゃ意味ないよ」「『できませんでした』じゃすまされないぞ。わかってるな」といった具体的な発言を引用することで明確にしつつ、感情的な糾弾は行わなかった。
この質疑応答は、「視聴者に監督とコーチの責任を強く印象付けながら、それでいて監督やコーチを責めていない印象を与える」と視聴者には見えました。世間は加害選手に対してきわめて同情的になります。
加害選手、前監督・コーチの会見の明暗
対して前監督・コーチによる記者会見はお粗末なものでした。視聴者がわずかに期待したのは前監督が具体的な責任を認め、謝罪する姿だったのですが、前監督は指示を認めていません。コーチが一部曖昧に責任を認めましたが、逆に事前から勘繰られていた前監督によるしっぽ切りのイメージだけを残しています。
また、質問に対する準備のお粗末さも目立ちました。コーチは「怪我をさせる」という内容について話しているのかという質問を否定しつつもしどろもどろになっています。
22日の会見では、上記引用したように「この発言が真実であれば前監督とコーチはアウトだ」という発言がいくつも含まれています。弁護士が同席し会見を行う際は、あらかじめ予想できる質問については明確な回答を準備するものですが、間違いなく聞かれるであろう質問に対する準備もできていない前監督やコーチの質疑は視聴者を白けさせます。
実は22日の記者会見の段階で、加害選手が述べた数々のコーチ・監督の発言については、必ずしも証拠がありません。実際、彼の言葉のすべてが真実であるのか私には分かりません。しかし、前監督とコーチがあまりに印象の悪い会見を行ったため、結果的に、加害選手の発言が対照的に信憑性を持ってしまう結果になりました。勝負ありです。
ディフェンスラインの設定ミス、会見のお粗末さをもって、日大の無能さをあげつらう声があります。しかし私はそうは思いません。日大の中にいる多くの教職員が、一般国民の多くと同じように日大の繰り返す失敗について止めたいと考えていたはずです。しかし、まともな声は意思決定には反映されていないのでしょう。
選手を干して、違反プレーを強制するように追い込むような命令系統、不健全な意思決定システムが支配していると想像すると、長期的な視野も論理的な思考もなく、学校をして誤ったディフェンスラインを設定させ、広報がお粗末な声明を出して炎上を招き、必要もない会見を衝動的に設定し、ろくに準備もせず丸腰でそこに登場したことも自然に思えます。
さらに組織としての問題を感じたのは、22日に日大広報部がコメントした「指示はなかった」という内容と、同じく日大広報部の記者会見におけるメディアに対する極めて敵対的な司会です。広報部といえば大学そのものですから、日大は、組織全体が前監督と立場を同じくする旨を積極的にPRしたことになります。
教職員や現役学生、卒業生をも巻き込んだ
広報部に所属する司会者がメディアに「あなたのせいで日大のブランドが落ちますよ」と言われ「落ちません!」と即答したとき、前監督・コーチと広報部は悪い意味で一体になっています。
日大という、全国に知れ渡った教育機関のブランド全体が毀損した瞬間です。大学の規模やこれまで積み重ねてきた歴史を考えると、この損失は極めて大きいと言わざるを得ません。
日大には2000人を超える教職員と約7万人の現役学生、そして卒業生を軸に無数の関係者を擁していますが、この対応ではすべてを巻き込んでしまいます。日大そのものと前監督・コーチは立場が違うことを明示し、距離を置くこともできました。そうしなかったため、今回の問題を「部」の中に留めることはかなわず、日大全体に波及することは避けられなくなったのです。
もし組織にきちんと議論する土壌、多くの人の意見が容れられる土壌があったなら、このようなミスが起きたでしょうか。
私は日大の組織構造についてはほとんど知りません。しかし、本件の闇は、前監督やコーチの個人的な資質ではなく、不健全な意思決定システムにあるように思われてなりません。日大という巨大な組織は加害選手だけを切り捨てる一方、たった1人の前監督を守るという実現不可能な目的のため、教職員と学生を生贄に捧げ、莫大な価値のある大学ブランドを毀損するに至ったのですから。
それでも、私は日大が気の毒だとは思いません。これは部活の問題が大学に運悪く波及したのではなく、大学という組織の意思決定に最初から問題があったためで、すなわち、やっぱり組織全体の問題であるのです。日大に対しては、本件のような事件を二度と起こさず、大学の信頼を回復するため、前監督やコーチの処遇以前に、大学に関する意思決定のシステムを抜本的に考え直してもらいたいと思います。